「新聞奨学生」になった経緯
何故か、前回書いた新聞奨学生の経験が、人に響いたらしく。
もっと経験談を書いてくれって言われ、それを言った方が知りたそうなことをイメージしながら、何が知りたいんだろうなぁと思ったときに。そういえば、っていうことで。
そもそも、何故始めたのか?
一言で言うと
大学に行く金が無かったから。 と 家からとにかく出たかった。
家に学費を払う金が全くなかったため。といえば、これにて終了。
確か、新聞奨学生については、親が情報を持ってきたような気がします。
「こんなのがあるよ」って。
当時は、それを使えば行けるんだ、という選択肢しかなく、これにかける、ような思いだった気がします。迷いはあまりなく。
6つ上の兄が大学を一浪・一留してくれたお陰だと思い 一瞬恨みましたが 進むことにしました。
でも、思うんです。
何で家って金が無かったんだろう って。
理由はシンプル。
父親が働いていない時期がありました。私が中学~高校の時だったか。
正確に言うと、自営業で仕事が無い時には、家で1日中ゲームをしてました。確か将棋のゲーム。
時代はバブル崩壊後。バブル前に個人運送屋を始めてました。最初は羽振りがよく、小学校のころ、「テストで良い点取ったらお金やる」なんて、調子のいいこと言ってました(実際もらったこともありましたが)。しかし不況のあおりを受けて仕事は激減。普通は仕事を探すはずが、何故か、仕事が無い時は、将棋ゲームをずーーーーっとやってました。
そんな父親のゲームをしている姿が、本当に嫌で嫌で。
なんでゲームやってて仕事しないの?
と尋ねたこともありましたが、当日の私には理解できなかった意味不明なことを言っていたので、ケンカしてました。(何と言ってたか記憶が曖昧)。
この頃から、置かれた立場で、頑張れる環境なのに頑張らない人に対して、極度の嫌悪感を覚えるようになりました。今に通じてますね。
でも、今思うと、アレは ウツ か 引きこもり だったのかも。と感じることもあります。でも当時は理解が出来なく、許せなかった。
ところで、母親って何してたかな?と振り返ると、私が小学校高学年位の頃から、パートに出始め、JT(日本たばこ)の工場で仕分け作業(実は今でもやっているので30年近く同じ仕事をしています)。
とても、母親のパート仕事(配偶者控除の範囲内)だけで、うまく行くはずもなく、その頃から家で親がケンカしていたような気もします。
母はとても倹約家。本当に節約が趣味?のように、家計を切り詰めていました。金が無く、とにかく節約。お風呂は2日に1回。これが常識でした。どうしても入りたければ風呂と風呂の間の日にシャワーで頭だけ洗う。という生活。でも別に貧乏だから心まで貧相だったか、というと以外にそうでもなかったです。うちはこういう生活をする家なんだ、って思っていたので。
何で、一緒に暮らしているんだろう。この夫婦。って幼い頃からずっと思ってました。
父親はいつも母親をバカにしている。
母親は何も言わない。もう諦め、なのか本当にバカなのか。
何でもいいから、とにかく、、とにかく 家を出たい。家を出る理由を作りたい。
そんな自分には、新聞奨学生 という方法でしか、家を出る方法はない、と思い込んで、始めました。