田邊健史の「義人感謙」

2017年から作成。個人の動き、書き留めたいことをこちらでツラツラいきます。義人感謙とは、私が、大切にしたい「義理」「人情」「感謝」「謙虚」の頭文字を取った造語です。

集まりに期待することの違いからくるモヤモヤを見つめ直す

多様性を認めるためには、自分と違う意見に対して、落ち着いて受け止める心の余裕が必要だと感じた週末、という話。

4月20日に行われた
「企業化するNPO2 当事者隠ぺいと既成価値の強化」に参加。

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主催の田中さんの企画は、ちょうど1年前のこちらにも参加。

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話された内容、私の雑感では、2回とも田中さんが伝えたいことは、↓のようです。

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これ自体は、本質・根源的には理解できるので異論はなし。
(それだけがNPOでもないし、それこそ多様性だと思うのですが)

 

不思議なモヤモヤになったのは、参加者の質問やりとり。

個人的な感覚としては

「質問する人が、どれだけその質問に固執するか」

という点ですね。言うても端から見たら私だって固執していたかもしれません。
自分を戒めつつ。

 

BLOGOSの記事にコメントで結構面白いやり取り出てました。

コメントの多くは、NPOに対して、初歩的な勘違いをしています。
上にも書きましたが、NPOと一般企業の基本的な違いは、利益を出資者に配当するかしないか、ということです。
それは、もちろん、出資者が何を期待して、お金を出すか、ということとも関係します。___

一方、従業員にとっては、粗利益から自分の給料が払われる、という点では本質に違いはありません。
出羽の神にはなりますが、海外では、従業員にきちんとした専門職としての給与を払うNPONGO)も沢山あります。(そうでないものももちろん沢山ありますけど)___

日本のNPOは、エントリーがかなり自虐的に書いているように、残念ながら、従業員の処遇が営利企業社会福祉法人、そして役所等よりも劣っているものが多いのが実態です。
そして、役所の毎年変わる予算を当てにしているところも多い、という不安定な団体が多いわけです。役所ができない高度に専門的な業務や先進的な取り組みを、役人よりも遙かに安い給与を前提とした委託費で実行している、という「下請け」的な状況があります。(誰でもできるようなことをやっているNPOもありますけどね)___

しかし、それがNPOのあるべき姿か、といえば違います。
もちろん、ボランティア、プロボノ、副業、趣味としてNPOに関わるあり方もあるでしょう。
しかし、持続可能で豊かな社会を築くため、人生100年時代に多様で柔軟なライフスタイルを実現するには、従来の枠組みだけでは全く足りないことは歴然としています。___

エントリーは、一面の現実を捉えていますが、その現実を直視する必要がある一方、肯定してはいけないのです。その違い、わかってほしいものです。

 

私は、この考えに近いです。

そもそものスタートが
・企業が手を出さない(出しにくい)ほどの収益性(儲からない、効率悪い)
・行政が手を出さない(出しにくい)ほどの公益性(個別すぎる、役割が違う等)

だけど、社会にとって本当に必要だと思うものを、思いを胸に創造して起こし、活動を展開するのがNPOの役割。
食える食えない、で考えるのが本質だったのだろうか、どうもピンときません。

昨年、フミコムに来た中学生がレポートでまとめたときに、NPOは行政依存が多くて経営基盤がぜい弱という研究者の本が引用されて、それだけがNPOじゃないよゴニョゴニョとは伝えつつ、改めて考えてしまいました。

行政の仕事を行うにあたって、「あそこに任せられる」という信頼は経験でしか勝ち取れない。(自分たちの目利きを棚上げにして)二の次に実績っていう行政人に対しては、実績を勝ち取るため、期間限定で目的を明確に持って臨んでいるケースだってあるのです(少ないけど)。

さて、本題に戻るとして。

今回のテーマは
「企業化するNPO2 当事者隠ぺいと既成価値の強化」というのに惹かれました。

・企業化するNPO

NPOの収益性と企業の社会貢献性が重なってきたことによる表現。このこと自体、NPO第一世代の方をはじめ、望んできたことだと思っていました。こうなることに私は違和感がありません。むしろNPOこそが多様性を受け入れ、変化し続けるナマモノだと思っています。

NPO法の制度ができて20年少しですが、時代の流れで「○○化」するのは、むしろ必然。だからこその存在価値が問われている過渡期である、という事実。このこととスタッフは食えない、って申し訳ないけど分けないと論点ズレる。

 

・当事者隠ぺいと既成価値の強化

私はこっちに問題意識があって参加したのですが、全体討論でこの話しても、「じゃ、あなたはそのために何やっているんですか」と何故か自分はどうなのよ(言われなくても日々実践してますよ、とはその場でちょっとイラッとしながら)となり議論が深まらないのが残念。

「何故、食えないことをもっと発信した方がいい」ってなるのだろう。
事実としてはそうですが。これだけ複業言われる時代になったら、むしろ選択肢の一つとしてプラスに取り上げられたったいいのに。結局、自分が報われないのが嫌って吠えてるだけですよ。

選ぶのは自分であって多様性があってもいいのに。っていうのはマイノリティな考え方なんだろうか。。
それよりも、こういう繋がりができたら(その陰の面も含めて)今まで超えられなかった壁を超えるよね、って話にならないのか。
 

田中さんの「この業界はとにかく批評に慣れていない」には
深く深く賛同(これまでたくさんの方のキメツケ論にヘキエキ)するところがあるのは事実。

そこに集う人が、食える(食えない)ってボソボソ言ってるのが哀しい。

本気で解決したいと思うなら、今までのやり方では変わらない

に向き合い続けられるか。
だからこそ違う価値観の人との対話や批評が大切。

こんなに、あらゆるものが単純化されて、議論にならないのか。
みんな考えることが疲れちゃったかしら。
対話って言葉も軽く使われてますが、会話のウワベ感を掘り下げる意味では必須の視点なのに、使い方がウワベ感ですり減らされてしまっているし。。
当事者不在の議論しても本質じゃないよね、という話において、当事者の支援(支援って言葉が好きじゃないが便宜上)に関わる関係者の嘆きだけで終わるのではなくて、

どうして当事者隠ぺいが起きるのか。
賛同を得るためには何をやってもいいのか。
ってところの構造の理解と解決に向けて、はどうなってますかね。
ってなっていくのは難しいのか。

批評ができない、日本の世の中。

 

私の結論は

・自分の問題(食う食えない)と 社会の問題(構造の理解と解決)を分けて議論しながら、論点絞らないと前に進まない(食えない問題を軽視しているわけではない)

・答えは一つだけじゃない(だからこその批評を受け入れ、自らを改善)

NPOの現場にいた人は(大学という雇用を含めた)教育現場にいるはずなので、お願いだから、キラキラ現場だけではなく、社会課題の構造や本質を伝え続ければ、勘違い者が少しは減るんじゃないの

です。

そういう意味では、自分だって改善していかないといけませんと、と自戒を込めてって。

 

次回は7/12(金)18:30~20:30 @阿佐ヶ谷だそうです。

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